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2023年12月20日水曜日

新しい箸置き

塩鮭にカリフラワーに菜花

かぼちゃの味噌汁

糠漬けは浅めだが、しっかり糠の味。


 

2018年8月4日土曜日

忘れ得ぬ店その4 「うまいち 」パート3
馬道二丁目に引っ越してからうまいちは、店をよく休んだ。
日曜日にやるかと思えば週末の掻き入れ時でも閉まって居た。
おそらく片目を無くした主人の体調もあったのだろう。
街中でバッタリ会った店の馴染み客が、
例のS江さんから突然電話がかかってきて
彼女が始めた保険屋に勧誘されたと。
そんなこんなで又少し足が遠ざかり、
久しぶりに銭湯の帰り店をのぞいたら客は無く、
主人がTVの時代劇をポケッと観て居た。
相変わらずテッポーは旨かったが、
彼は片目だと疲れ易いとこぼして居た。
今思えば、かなり糖尿病は進んで居たのだろう。
そして彼の息子が暴れて警察沙汰になって
引き取りに行った事などを話した。
半ば女房と一緒に捨てた様なもんだから
グレるのは当たり前だよなと独り言。
そこには嘗て愛人たちに、それぞれ店を持たせて
一晩中掛け持ちして居たという色男の面影は消えて居た。
その彼が「エゴラッピンってグループ知ってる?」と聞いてきた。
私が知らんと答えたら、そのメンバーが、
この頃よくウチへ来るんだと。
なんでも鶯谷のキャバレー跡でライブをよくやっていて
先日招待されたので観にいったら面白かったと。
ふ~んと、その時は興味がなかったので答えた。
それから暫くして、店は開いていることは全く無くなった。
そして街中で会った店の客からM氏が亡くなった事を知らされた。
そうか、もうあのテッポーは食べられないのかと急に哀しくなった。
それから1年くらい経った或る晩、また銭湯の帰り、
その店の灯りが点いて居た。
えっ死んだ筈じゃなかったの?ユーレイ?と
恐る恐る扉を開けたら、誰も居ない。
こういう時、昔は彼が買物に行ってるんだ
声に出してトイレで小便をして出てきたら、
野球帽を被った、やたら背の高い奴とバッタリ!
向こうも私に驚いている。まあ私も普通じゃないからネ。
お互いに睨み合っててもしょうがないので自己紹介は私から。
昔この店によく来てたCM監督。
彼も私はエゴラッピンのギターを弾いてる森雅樹と少し関西訛り。
聞けばM氏の最期を仲間と看取り、
その後、この店が無くなるのが惜しいので
みんなと借りてアジト兼事務所代わりにしていると。
私のことも聞いて居たらしく、
S氏が置いていったサーバーでチューハイも作ってくれ、
しみじみ彼の昔ばなし。私が彼は相当モテたらしいよと言ったら、
いや本当かな?
彼が部屋に宝石が在るから金に替えてくれというので
鑑定したら全部安物だったと。
彼も私と同じ様にM氏の虚言癖を承知で付き合って居たらしく、
コイツ本当に、いい奴だなと。
ウチに戻ってYouTubeエゴラッピンを探したら
結構センスのある良いバンド。これから贔屓にしようと決めた。
それから何年たったろう、
東京駅から私が南千住行きのバスに乗ったら
三越前からS江さんが乗ってきた、
かなり前の方に居たので声をかけずに居たが
遠くからでも判る相変わらずの濃い口紅、
でも心なしか寂しげに見えた。
忘れ得ぬ店その4 「うまいち」 パート2
それから何年かして、
同じ馬道通りだが浅草駅から離れた2丁目に
此の店の看板を見つけたのは銭湯の帰りだった。
一丁目でなくとも名前はうまいち
前の店より、だいぶ狭くなったが、
それでもメニューも味も変わらなかった。
馴染み客も再開したのを知って次々戻ってきた。
客は電気の配線設計士、組紐屋の番頭と仕事は違ったが、
ホルモンが大好きと言うところが一緒だった。
主人のM氏はTVは巨人と時代劇が大好きで、
焼いている時以外はTVのチャンネルを探し、それを夢中で観て居た。
ある日、「大岡越前守」の脚本が最近ダメだとか
専門家らしい事を言って居たので、
私が中村錦之助の「関の弥太っぺ」の話をしたら、
「アレは良かった、大好きな映画だ」と。
話題がその映画になり、側にいた馴染み客で、
その映画を観て居ない奴が居たので
私がウチにビデオがあるからこれから観に来る?といったら
皆付いてきて、店を早めに閉めたM氏も近くだったので
私のマンションで深夜の「関の弥太っぺ」鑑賞会となった。
皆、酔っ払いながらも温順しく観て居たが、
私がクライマックスに「此処で泣かされるんだよ!」
と振り向いたら大の大人が、いや親父たちが全員涙を浮かべていた。
前の店の時にもいたS江さんも時々現れ、
一緒にアマゴを釣りに行ったと仲はうまくいっている様だった。
釣りといえば私は釣りをしないがイカが好きだと言ったら、
M氏は私と配線設計士を誘い3人で東京湾にイカを釣りに行った事もあった。
釣りといってもシャコを餌に、錨のちっちゃな奴みたいなのに
引っ掛けるだけだった。
それでもビギナーズラックで私だけ2杯も釣れたのには笑った。
悪いから次の日、塩辛にして店で分けたのを覚えている。
ホルモンの部位もコブクロ””ハツレバそしてその頃は
生もO'157騒ぎ以前だったので
規制もなくレバ刺しもよく食べた。
それ以外には冷やしトマトぐらい、
飯の代わりが豆腐の入ったモツ煮込み、
今思えば栄養のバランスは悪く、少しづつ私の身体が
おかしくなってきて居た。
だから飲み物はチューハイ3杯を切り上げどきにして居た。
それでも三日と空けずに通っていたら
先にM氏の方が糖尿を悪化させ、片目を失う事に。
そう言えば彼は連日、自らチューハイを作り、
また客から勧められるまま、それを飲んでいたのだ。
また続きはパート3へ。
忘れ得ぬ店 その4「うまいち」パート1
此の店の名は最初の店が馬道通りの一丁目に在ったから。
浅草を知る人には江戸前で有名な弁天山美家古鮨の2軒隣りと言えば分かるか?
仕事帰りの家に戻る途中、何とも香ばしい匂いの此の店に引き寄せられたのが最初。
それがホルモンという俗にして贅沢な食べ物と私の出会いだった。
それを焼いていたのはオーナーのM氏。
はじめての人は面食らう愛想の無さ、まず直ぐは焼かない。
勿体ぶっているようにさえ感じる。
大概の人は、その態度に腹を立て、二度と来るか!という気になる。
それでも一度その店のホルモン、特に部位、テッポーを口にした途端、
オッと驚き、病み付きに、つまり虜になったら、
何んでも彼の言うがまま客は、ひたすら餌を待つ子犬の様になってしまうのだ。
そのテッポーの焼き方の柔らかさ加減と言ったら、
もう彼はホルモン焼きの名人というか、
ホルモン教の教祖様に見えて来るのだ。
そして、それを求めて三度も店に通えば
"あんたテッポーの味が分かるんだね"言わんばかりに彼は話しかけて来る。
テッポーは一人4本、1日限定5人まで、早いもの勝ち。
シロという腸の中から特別柔らかな部分が選ばれている。
もちろんシロをタレや塩で焼いたのも旨いが、
テッポーは特別貴重な部位なのだ。
店はカウンターだけで狭いから、彼と顔を突き合わせない訳には行かない。
そんな間柄になって聞いた話だが、
その昔、彼はやたらモテて女房以外に三人くらい愛人を囲っていたそうな。
それぞれにクラブ、キャバレー、BARと店を遣らせるくらい
羽振りが良かったと自慢するその顔には、
確かに男の色気の様な面影が、微かに残っていた。
それにその頃、店には場違いな黒いミンク擬きのコートを着た
S江という女性が時々現れた。
彼女は時々コートを脱ぎ、割烹着で皿を洗ったりして手伝っていたが、
たったいま人を食って来たばかりの様な真っ赤な口紅が
下町のホルモン焼きの店では相当浮いていた。
店は通りに面したビル三階建だったので
夏の終わりのサンバカーニバルのパレードを、
その2人と一緒に3階の窓から覗かせてもらった事もあった。
しかし、そこには男と女の腐れ縁の様な臭いが漂っていて
とても気まずかったのを覚えている。
どうやら彼は彼女に借金をしているらしかった。
そうこうする内に、ある日突然、何の挨拶も無しに、
店のシャッターは開かなくなった。
此の店の話しは長くなるのでパート2に続く。

2018年8月3日金曜日

忘れ得ぬ店 その3 天ぷら蕎麦の大三 
上の写真は、ありし日の店の外観と名物だった天ぷら蕎麦。
その店は浅草寺の裏、千束通りの中程、吉原の入口へ曲がる角に在った。
地元では知る人ぞ知る名店として人気が有り、
私も浅草へ引越した直後、人伝てに聞いて出かけた。
その前に何故、私が浅草に住もうと思ったかの話しをしよう。
その前は中野坂上の大久保通りに10年住んだが、
それは最初に勤めたCM制作会社が新宿御苑前で新宿も途中に有り、
遊ぶのにも何かと便利だったから。
しかしその後、会社を辞めた何人かでフリーになり
新しく始めた会社が外苑前で新宿を経由しなくても良くなり、
そして、その頃TVの朝ドラでやっていた沢村貞子の「おていちゃん」に
描かれた下町浅草に憧れたからである。
それにもう一つ、小沢昭一著の下町案内に登場した
美味いモノの店に涎が出たからである。
更に見逃した映画、ヤクザ物、洋画の三番館四番館が
六区の通りに当時は沢山在ったのも私には嬉しい事だった。
まあ、もう一つ近くに嬉しいものが有ったが、それは内緒。
話しを大三に戻すが、
その頃、その店は禿げて太った親父が大きな海老の天麩羅を揚げ、
それを同じく女性にしては体格の良い女将さんが
茹で上げたばかりの手打ち蕎麦にジュッと載せ、手際よく運んでいた。
それには季節を問わずシャキッとした三つ葉と柚子の皮が必ず入り、
その味は、それまで食べていた天麩羅そばの概念を
遥かに超えるものであった。
そして夏場の冷やしたぬきは
その海老の天麩羅の香りの残る揚げ玉を使い、
程良いタレの甘さは何と言おうか。
此の二品を迷った挙句、両方食べる習慣になってから
私の腹は急激に出て来た様な気がする。
そして品書きには無いが、店が混んで居ない時、
作ってくれる天麩羅定食の天麩羅の揚げ具合は
並の天麩羅屋を超える旨さ。
そしてお吸い物に季節野菜の糠漬けは完璧で有った。
噂では親父さんは先妻を亡くし男やもめで、
直ぐ近くで居酒屋をやっていた女将さんの処に
客として通っている居る内に2人はデキて一緒になったらしい。
その頃は親父さんも店の奥にドーンと座り、
三社祭のカンカン帽と浴衣に半纏姿は、
何処かのビールのポスターに使われる程、
鯔背で格好良かった。
それから暫くして親父さんは亡くなり、
残された女将さんが代わりに天麩羅を揚げ、
気の利く女店員2人と店をきりもみして店の味は保たれた。
元々、女将さんがやって居たのは料理の上手い居酒屋だったらしい。
それから暫くは此の店は続けられ、
鳶の親方などの常連客も顔馴染みとなり、
ひを、しと発音する落語の様な下町言葉が味わえる店でも有った。
しかし店を手伝う女性達も高齢化し、
どんどん女将さんの背中が曲がって行くのがとても気になっていた。
そしてある日突然、女将さんは店をたたんでしまった。
此れには私も戸惑って、
気持ちの整理が出来ないまま今に至って居る。
諦められないのだ。
嗚呼、愛しの天麩羅蕎麦、冷やしたぬきよ。

2018年8月2日木曜日

"忘れ得ぬ店 "その2 とんかつの春日 
その店は田町駅から慶応大学に向かう商店街の入口近くに在って最初は木造の二階建てだった。暖簾をくぐると主人の威勢の良い声がまず聞こえた。昼は定食だけで学生やサラリーマンで混雑していたが女将さんが手際よく客を捌いて、待つことなく揚げたての分厚いとんかつが出てきた。私が此の店を気に入ったのは、定食屋らしからぬ季節の花や絵などを飾った落ち着いた佇まいと、ある日、店で、奥から揚げられたトンカツに主人が"ダメだこれじゃ"と小さなカツの2皿分を1皿に盛り直すのを偶然見てからだ。此のセチ辛い世の中で"ウチの店は"という気骨が彼に感じられた。此の店はカツの旨さは勿論、味噌汁のシジミの大きさまで何時でも揃っていて、身も柔らかく忙しい筈なのに煮込み過ぎていなかった。
此の店の先にCM制作会社が有って仕事で遅くなると私は晩御飯代わりにも此の店を利用した。夜はカツ以外に刺身や酢の物などの品数も増え、それが割烹料理屋の様な洒落た器で現れた。くわいの旨さを知ったのも此処だ。それでいて私が"今日は手持ちが少ないんだけど"と言うと、指を三本五本と立て、私が三本を立てると、ニコッと笑って頷き、その値段で、此んな物まで食べられるかと、旬の魚や野菜の煮物を、その場で作ってくれた。
それから暫く田町の仕事先とは縁がなく、何年か後にその店の前を通ったら、それはコンクリートのモダンなビルに変わっていてビックリした。ても、その一階で店は続いていて、主人の相変わらず元気な声が聞こえ、安心した。そして彼が自慢していたL.Aに留学していた息子が戻って来ていて、そのビルの三階に西海岸風なBARを開いていた。
どうやら息子の為に店を建て替えビルにしたらしい。だから私は一階で食べた後、三階で軽くカクテルなどを飲むというコースが出来た。それから又暫くして田町に行ったら何と、そのビルが、まるごと大仕掛けの手品の様にキレイに無くなっていた。
あの昔気質の主人に若い息子、いったい何があったのだろう。あれこれ想像しても結局分からない。
出会いは別れの始まり、別れは突然やって来る、店も人も同じ。今でも想い出すのは、あの粋で鯔背な主人の "らっしゃい!"という声。

2018年8月1日水曜日

"忘れ得ぬ店 "その1 栃木の屋台ラーメン
出会いに別れは付きものと、
涙を堪えてサヨナラした人が居るように、
大好きだったのに何かの事情で閉めてしまった店がある。
そんな店へのオマージュ=想いを
古い順に書き残したい。
まずは私の故郷の栃木市に在った
屋台のラーメン屋、名前はシンガキ。
日が暮れる頃に赤いランプの警察署の前の広場に店を出し、
夜中だけ営業していたその屋台に通ったのは
私が中学生から高校生の頃。受験の息抜きというか、
まあロクな勉強はしていなかったな。
何せ夢中だったのは映画館からポスターを盗む事。
自分の部屋は西部劇や史劇物で天井まで埋め尽くした。
「クレオパトラ」のポスターなんかは
エリザベス テーラーをレックス ハリソンと
リチャード バートンが挟んだ巨大なビルボード用で
縦横3x5mも有ったんだから私は相当な凄腕だった訳よ。

おっと横道に逸れたが、話しを屋台に戻すと、
とにかく夏は蚊に喰われながらペダルを漕ぎ、
冬は手袋をして北風の中ハンドルを握って夜食に通ったものだ。
味は、今で言う喜多方いや佐野ラーメンに近いか?
平打ちの縮れ麺。
叉焼も上手だったが何より覚えているのは
柚子の皮の切れ端が入っていた事だ。
此れは後で登場させる予定の浅草の蕎麦屋 大三にも共通するが、
どうやって柚子を一年中保存出来たのかは謎。
とにかくアッサリしたスープに潜んだ小さな柚子の皮は、
薄れゆく私の栃木の記憶の中、まだ仄かに香っている。