2018年8月2日木曜日

"忘れ得ぬ店 "その2 とんかつの春日 
その店は田町駅から慶応大学に向かう商店街の入口近くに在って最初は木造の二階建てだった。暖簾をくぐると主人の威勢の良い声がまず聞こえた。昼は定食だけで学生やサラリーマンで混雑していたが女将さんが手際よく客を捌いて、待つことなく揚げたての分厚いとんかつが出てきた。私が此の店を気に入ったのは、定食屋らしからぬ季節の花や絵などを飾った落ち着いた佇まいと、ある日、店で、奥から揚げられたトンカツに主人が"ダメだこれじゃ"と小さなカツの2皿分を1皿に盛り直すのを偶然見てからだ。此のセチ辛い世の中で"ウチの店は"という気骨が彼に感じられた。此の店はカツの旨さは勿論、味噌汁のシジミの大きさまで何時でも揃っていて、身も柔らかく忙しい筈なのに煮込み過ぎていなかった。
此の店の先にCM制作会社が有って仕事で遅くなると私は晩御飯代わりにも此の店を利用した。夜はカツ以外に刺身や酢の物などの品数も増え、それが割烹料理屋の様な洒落た器で現れた。くわいの旨さを知ったのも此処だ。それでいて私が"今日は手持ちが少ないんだけど"と言うと、指を三本五本と立て、私が三本を立てると、ニコッと笑って頷き、その値段で、此んな物まで食べられるかと、旬の魚や野菜の煮物を、その場で作ってくれた。
それから暫く田町の仕事先とは縁がなく、何年か後にその店の前を通ったら、それはコンクリートのモダンなビルに変わっていてビックリした。ても、その一階で店は続いていて、主人の相変わらず元気な声が聞こえ、安心した。そして彼が自慢していたL.Aに留学していた息子が戻って来ていて、そのビルの三階に西海岸風なBARを開いていた。
どうやら息子の為に店を建て替えビルにしたらしい。だから私は一階で食べた後、三階で軽くカクテルなどを飲むというコースが出来た。それから又暫くして田町に行ったら何と、そのビルが、まるごと大仕掛けの手品の様にキレイに無くなっていた。
あの昔気質の主人に若い息子、いったい何があったのだろう。あれこれ想像しても結局分からない。
出会いは別れの始まり、別れは突然やって来る、店も人も同じ。今でも想い出すのは、あの粋で鯔背な主人の "らっしゃい!"という声。

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