力道山(1924〜1963)
彼は戦後最大のヒーローであった。
TVがまだ普及していない頃、駅前や広場の街頭テレビで
中継されたシャープ兄弟との試合は今のサッカー人気の比では無い。
今日午後にも、集団的自衛権が閣議決定されようとしているが
まだ進駐軍占領下・米国から受けた屈辱が覚めやらぬ時代
その恨みを晴らすべく白人兄弟を空手チョップで、
やっつける力道山の姿に全日本国民が溜飲を下げたのだ。
今なら国民栄誉賞を貰えるくらいの大スターだったのに
美空ひばりほど多く、取り上げられないのは何故か?
それは彼に謎、いや闇の部分が多いからだ。
まず彼の生い立ちから検証しよう。
彼は長崎生まれ、先祖の墓も其処にあると云われている。
でも此れは真っ赤な嘘。
彼は戦前の朝鮮半島、今の北朝鮮辺りで
現地の両親から生まれた、れっきとした朝鮮人。
朝鮮名・김신락 金 信洛(キム・シンラク)
日本の朝鮮統治時代、現地の日本相撲興行で彼はスカウトされた。
スタイルは少し違うが朝鮮相撲は昔から有ったのだ。
彼の体格(176cm)と、その強さが二所ノ関親方に見込まれた。
何歳で半島を出たか、ハッキリしないのは
彼が過去を公にせず、歳も誤摩化していた事に依る。
その頃、既に彼は結婚もしており、娘も生まれていたらしい。
その家族を捨て、日本に渡り、二所ノ関部屋に入門
確かな事実は、その時,朝鮮籍では都合が悪いと
長崎県大村市の百田家の養子となり百田光浩と改名。
1940年に力道山のシコ名で初土俵を踏んでいる事。
太平洋戦争の終戦前後を挿んで相撲番付は順調に上り
1949年に関脇にまで昇進したのが記録に残っている。
しかし、その絶頂期1950年に何故か自ら髷を切り落とした。
此れは部屋親方との金銭トラブルが理由とされているが
角界に居乍ら、沢山の女性交際と、ハーレーダビッドソンに乗る
彼の派手な生活態度が、彼の過去を知る先輩力士たちの
反感を呼んだと思われる。
その後、彼は力士時代の後援者が社長を務める新田建設に就職。
ある日、ナイトクラブで
ハワイ出身の日系レスラー・ハロルド坂田と出会い
プロレスの魅力を知り、再び海を渡り1952年ホノルルで
日系人レスラー沖 敷名の元、修行を積む。
翌年、戻って先の後援者をバックに「日本プロレス協会」を設立。
1954年、上記のシャープ兄弟を本国から招いての興行は
前年、テレビ放送の日本開設とのタイミングに合い
爆発的なプロレス・ブームと成ったのは周知の通り。
その人気を裏付ける様に
当時、建設された空に手を掲げた長崎・平和祈念像の
モデルは力道山と云われている。
平和のシンボルにもされた彼だが
”昭和の巌流島”ともいわれた木村政彦との勝負は
後味の悪い印象をファンに残した。
それまでシャープ兄弟との試合でタッグを組んでいた木村は
柔道界の元・第一人者。
しかしプロレスのショーとしては”ヤラレ役”
一方、力道山は、その”助け役”、此れでは不公平
どちらが本当に強いか?決着を付けようと木村が誘った。
どんな世界にも裏は付き物だが、此の時、彼等は”引き分け”の
シナリオで、全国を興行する用意していたという。
それを木村が反則技の”金蹴り”を使ったと
力道山は本気で怒り、プロレスのショーとは程遠い
木村を殴るの蹴るのと半殺し、修羅場にしてしまった。
後に木村は力道山が最初に反則の脇腹を蹴ったと云って居るが。
どちらにも言い分は有り、どちらも今は
夜空の星に成っているので本当の処は解らない。
でも事実上、此れで力道山は日本では一番強い事になり
海外から世界一強いレスラーを呼んでは
チャンピオン選手権を争うという舞台が整った。
キング・コング、ルー・テーズ、ジェス・オルテガ
ボボ・ブラジル、ダラ・シン、ゼブラ・キッド
カール・ゴッチ、フレッド・ブラッシーと
我ながら良くレスラーの名前覚えているな(笑)
敵役を選ぶ演出家としての力道山のセンスは良く
後にどんどんエゲツなくなったものの
プロレス・ブームは長きに渡り続いたのである。
一方、事業家としての力道山の才能は大したもので
閃いたアイディアを絶えずメモに残し
プロレス興行で得た莫大な資金を元に
それを次々と実行に移した。
まず赤坂に自宅を兼ねた「リキ・アパート」を建て
ナイトクラブ「クラブ・リキ」
高級マンション「リキ・マンション」
渋谷の「リキ・スポーツパレス」は9階建て
中には今で云うソープランド「リキ・トルコ」
レストランにボーリング場まで併設していた。
その他に相模湖畔に大規模なゴルフ場、レース場等
三浦半島の油壷に800坪の土地を購入
レジャー施設計画の準備をそれぞれ進めていた。
それらはすべて、彼の死で絶ち消えに成ったが・・・。
プロレス興行は江戸時代からのヤクザのショバ代稼ぎの
伝統を受け継いでおり、暴力団と力道山の関係は古い。
プロレスラーという屈強な弟子(子分)を抱えて
彼は暴力団と対等に渡り合い、と云うより暴力団に近かった。
だから絶えず諍い、暴力沙汰のトラブルは付き物で
彼がナイトクラブで刺されたのも、なんら不思議ではない。
その時も酒癖の悪い彼が先にヤクザを殴ったと云う。
殺されると思ったから刺したとヤクザは述べているが
そのヤクザも今は星に成っているので本当の処は解らない。
それでもプロレスの試合で、その頃、よく頭から血を流し
まさに”不死身の男”に思えた彼が
あっけなく死んだのは、病名や手術も含めて、また謎が多い。
中には力道山は南北朝鮮Wスパイで暗殺されたという説まで。
でも此れを裏付ける様に、北の将軍様コレクションには
力道山から贈られたというロールスロイスが在り
韓国の朴大統領の就任式典に密かに出席した力道山を
スポーツ新聞がスッパ抜いていて激怒されたとか
確かに南北朝鮮双方と繋がっていた気配はあった。
当時全盛の映画に28本も出演し”月光仮面”の様に
正義の味方として子供たちの憧れだった彼だが
実は粗暴な性格を持ち、周りの者、弟子さえ信用せず
気まぐれに、靴べら、時にはゴルフクラブで弟子を殴り
ストレスを解消していたと云う。
その被害者の弟子とは若きアントニオ猪木だが
その彼が今、北朝鮮と接近している意味が解らぬ。
話を当時の力道山に戻すと
札束をギッシリ詰めたアタッシュケースを持ち歩き
何人もの愛人を囲う、彼の実像はダーティー・ヒーローであった。
敵のヤクザの急襲を恐れ、自宅リキ・アパートのエレベーターは
狭くしていたため彼の棺桶は立てたまま下ろしたという。
そんな恐ろしくて、可哀想な彼だが
私の少年の日に”摺り込まれた”ヒーローのイメージは消えない。
一番上に掲げた写真の顔は、とても格好良く
見ていると元気が出て来る様な気が・・・。
まだ40前の39歳で亡くなっているんだね。