(日本映画・男優編)
小沢昭一(1929〜2012)
此の俳優は、もっと早く登場させても良いはずだが
去年、亡くなったばかりで、あちらこちらで
彼の素晴らしい業績は取りざたされていたので
今更書く事は無いかと遅く成ってしまった。
今更書く事は無いかと遅く成ってしまった。
それでも、こうして書く気になったのは
伊丹十三や永六輔と共に
私の今の生活は可成り彼に影響された処が有り
それは己を確かめる事にも成ると考えたからである。
そもそも私が昔、浅草に引っ越したのは
彼の「ぼくの浅草案内」という本がきっかけだった。
それには和食、洋食、居酒屋 と魅力的な店が沢山出ていた。
中には、もう無くなってしまった店も有るが
当時それは私の”食”のバイブルだった。
そして今は、もう殆ど閉館してしまったが
六区の映画街大通りに、封切りは元より
二、三番館が軒を並べ
見落とした洋画邦画が、いつでも好きなだけ見られた。
(「暗殺のオペラ」「砂漠の流れ者」「花札勝負」等)
当時レンタル・ビデオ屋なんか無かったからね。
そもそも私が昔、浅草に引っ越したのは
彼の「ぼくの浅草案内」という本がきっかけだった。
それには和食、洋食、居酒屋 と魅力的な店が沢山出ていた。
中には、もう無くなってしまった店も有るが
当時それは私の”食”のバイブルだった。
そして今は、もう殆ど閉館してしまったが
六区の映画街大通りに、封切りは元より
二、三番館が軒を並べ
見落とした洋画邦画が、いつでも好きなだけ見られた。
(「暗殺のオペラ」「砂漠の流れ者」「花札勝負」等)
当時レンタル・ビデオ屋なんか無かったからね。
処で”キネマ通り”らしく、まず彼の映画俳優歴だが
その先に旧制麻布中学でフランキー堺や加藤武と同級
落語研究会なるものを立ち上げていた。
早稲田大学を出てからは俳優座の二期生となり、その後
早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成
1966年新劇寄席「とら」で芸術祭奨励賞を取っている。
その頃、大学の同窓生だった
その頃、大学の同窓生だった
今村昌平の誘いで、今村の師匠・川島雄三と出会い
「愛のお荷物」「州崎パラダイス赤信号」「幕末太陽伝」の
映画出演で彼、曰く演技開眼する。
この辺りの監督と俳優の羨ましい程の甘い関係は
藤本義一著「サヨナラだけが人生さ」に描かれている。
そして川島が亡くなった後、今村の作品で
更に彼の存在は目立ち始め
更に彼の存在は目立ち始め
タモリより以前に、そのユニークな多国籍語?を生かし
「にっぽん昆虫記」では怪しげな在日韓国人役で
パンパン役・春川ますみのヒモを不気味に演じた。
今村の「人類学入門」では、とうとう主役のエロ事師を
そして増村保造の「痴人の愛」でも主役をと
”Stardust=星屑”ではなく眩しい星に成ったはずだが
彼が光ったのは主役の側の小さい星=脇役だった。
「肉弾」「青春の門」「冬の華」「男はつらいよ」と
チラッと出て画面をさらってしまう面白いバイプレイヤーとして
A級B級映画を問わず出演しまくり総数200本余り。
「豚と軍艦」「ええじゃないか」「楢山節考」「カンゾー先生」と
彼は今村昌平の作品に殆ど出演しているが
今村の映画は脚本を書く前に、その対象の徹底したリサーチを
するのが定評だ。
それは当時無名の藤本義一を取材・助監督としてに抜擢した
師匠の川島雄三ゆずりでもある。
それに盟友である小沢も感化され、自分の芸のコヤシと
考えたか、どうかは知らないが「日本の放浪芸」という
既に途絶えかけた日本各地の放浪芸のアルバムを作り始めた。
此れは彼の実家が写真屋だったから記録マニアで
あった事も関係してるかもしれない。
とにかく、彼のどん欲な好奇心は芸と名が付けば
一条さゆりのストリップ・ショーまで含まれていた。
(そのLP7枚組は浅草の中古レコード屋で見つけた)
そして彼の凄いのは、その行動力。
映画、レコードの他に著作も数多く、それは女優の沢村貞子以上だ。
彼の古典芸能それも庶民の芸能に対する興味は尽きなく
出版社を立ち上げ、研究誌「季刊・藝能東西」まで創刊した。
そしてラジオはTBSで「小沢昭一的こころ」を40年近く続け
その他に劇団「芸能座」を主宰、そして一人舞台の
劇団「しゃぼん玉座」では井上ひさしの戯曲を上演していた。
”消え行くものを惜しむ心”
それが彼のエネルギーの総てで有ったのかも知れない。
彼が映画で演じた役の様に社会の底辺に生きる人々の
苦しみ、哀しみを、笑いに変えて暮らして来た歴史と文化を
卑俗、猥褻と呼ばれるとも
生涯をかけて記録、保存したかったのだろう。
晩年、前立腺がんを患い、闘病生活を続けながらも続けた
ラジオ「小沢昭一的こころ」の最終回は2012年11月16日だった。
「豚と軍艦」「ええじゃないか」「楢山節考」「カンゾー先生」と
彼は今村昌平の作品に殆ど出演しているが
今村の映画は脚本を書く前に、その対象の徹底したリサーチを
するのが定評だ。
それは当時無名の藤本義一を取材・助監督としてに抜擢した
師匠の川島雄三ゆずりでもある。
それに盟友である小沢も感化され、自分の芸のコヤシと
考えたか、どうかは知らないが「日本の放浪芸」という
既に途絶えかけた日本各地の放浪芸のアルバムを作り始めた。
此れは彼の実家が写真屋だったから記録マニアで
あった事も関係してるかもしれない。
とにかく、彼のどん欲な好奇心は芸と名が付けば
一条さゆりのストリップ・ショーまで含まれていた。
(そのLP7枚組は浅草の中古レコード屋で見つけた)
そして彼の凄いのは、その行動力。
映画、レコードの他に著作も数多く、それは女優の沢村貞子以上だ。
彼の古典芸能それも庶民の芸能に対する興味は尽きなく
出版社を立ち上げ、研究誌「季刊・藝能東西」まで創刊した。
そしてラジオはTBSで「小沢昭一的こころ」を40年近く続け
その他に劇団「芸能座」を主宰、そして一人舞台の
劇団「しゃぼん玉座」では井上ひさしの戯曲を上演していた。
”消え行くものを惜しむ心”
それが彼のエネルギーの総てで有ったのかも知れない。
彼が映画で演じた役の様に社会の底辺に生きる人々の
苦しみ、哀しみを、笑いに変えて暮らして来た歴史と文化を
卑俗、猥褻と呼ばれるとも
生涯をかけて記録、保存したかったのだろう。
晩年、前立腺がんを患い、闘病生活を続けながらも続けた
ラジオ「小沢昭一的こころ」の最終回は2012年11月16日だった。