フランク永井(1932~2008)
今は、もう1件も無くなった宇佐美のカラオケ屋で
昔、私が彼の曲をリクエストしたらTVモニターに
野球帽を被った本人と思しき男に釘付けになった。
とても歌う気になれなかったのを思い出す。
フランク永井・本名 永井清人は
53歳の時に、自宅の階段で首を吊り、
早期発見で死には至らなかったが
脳に障害が残り歌手生活は勿論、
日常生活もままなら身体となった。
彼は東北は宮城県生まれ、幼い時に父を亡くし
芝居小屋を経営する母に育てられるも歌手になる願望が強く
高校を出て直ぐ上京。
進駐軍占領下のキャンプでトラックの運転手から、
下士官クラブ専属ジャズシンガーとなり
当時の金で月収100ドルの収入を得ていた。
芸名は本土で人気のあったフランク・シナトラからと思われるが、
私には”黒いシナトラ”と呼ばれた
黒人歌手ビリー・エクスタインの唱法に似ている気がする。
とにかく歌の上手さは”のど自慢あらし”と呼ばれるほどで
ビクターから声がかかり、スタンダード曲”恋人よ帰れ”でデビューした。
しかし、なかなか売れず、作曲家吉田正との出会いで
歌謡曲「有楽町で逢いましょう」がヒットし、先に出していた
「東京午前三時」「夜霧の第二国道」も売れ
松尾和子のデュエット「東京ナイトクラブ」と一躍トップスターとなる。
その後は暮れの紅白26回連続出場、昭和36年にはスイングジャズ風にアレンジした
二村定一のカヴァー「君恋し」は第3回レコード大賞を受賞
そのジャズに裏付けされた実力と、
人懐こい顔で人気はピークに達した。
しかし人の人生には”落とし穴”というものが有るらしく
実生活で妻以外の子供の認知問題で、先の自殺未遂という
早過ぎた結末に至った訳である。
この問題は様々な憶測記事が出ているが
どうやら始末の悪い”美人局”に引っかかった様で
彼は被害者という説もある。
どちらにしても歌手にとってヒット曲に恵まれず
今の状態を見れば”くだらない”の一言に尽きる
紅白落選というショックに耐えられなかったのかもしれない。
それにしてもYouTubeの映像で見れる
彼の実力は今の歌手とは比べ物にならない凄さ。
結局、76歳まで生きていたとは言え
つくづく、その歌手生命の短さが惜しまれる。
k
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