2016年10月15日土曜日

青春群像(1953)
フェリーニが監督デビューして3作目に当る此の作品は
彼が師事していたロベルト・ロッセッセリーニの
イタリアン・ネオリアズモの影響が多々みられ
当時のヴィスコンティの様なシリアスな社会問題を扱っている。
しかし後のフェリーニらしいユニークな手法が、あちこちで試みられ、
フェリーニ研究としては可成り資料に成る作品だ。
まずシナリオはヴィスコンティの「若者のすべて」と殆ど同じ。
あちらはヤクザなボクサーの兄と真面目な弟との
愛憎を描いていたが
こちらは姉を孕ませて家に入り込んで来た義兄と
真面目な弟との関係を描いている。
その義兄は”雄牛”という渾名の女たらし。
映画の題名“I Vitelloni=雄牛”は此処から来ている。
此のフランコ・ファブリーツイという俳優、いかにもそれらしい。
戦後イタリアの混乱期に、地方の職の無い若者が
どうする事も出来なくて、ウロウロしているばかり。
義兄は主人公の遊び仲間の1人だったのだ。
義兄となってからも彼は女癖が悪く
義父のコネで雇われた骨董屋から美術品は盗む
子供が産まれたと言うのに
骨董屋の細君を口説くはと、全く救い様が無い。
それでも人の良い主人公は何とか義兄を
マトモにしようと一生懸命努力するのだが・・・。
彼の他にも遊び仲間には、海外旅行の夢を持つ者や
脚本家志望と様々なキャラクターが登場し
それらの若者を描く事で”青春群像”の邦題と言う訳。
それでも、此処かしこにフェリーニ好みの
落ちぶれた喜劇役者や、放漫な肉体を持つ女性が登場し
それらがニーノ・ロータの哀愁の有るメロディと
皮肉の利いた音楽で表現され
まさに”フェリーニ世界の夜明け”と言った風情。
主人公は、それら行き詰まった田舎から
都会へと旅立つ事で青春時代に別れを告げる。
此の辺りがフェリーニの自伝的作品とも云われる理由だが
それを見送る駅の無垢な少年が”グイド”という
フェリーニ映画では、お馴染みの名前。
そんな事で此の作品、フェリーニ研究には
欠かせないものと成っている。

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