2016年1月16日土曜日

ヴァルター・シュピース(1895~1942)
その2
彼の数奇な運命は、その生い立ちから始まる。
1895年、ロシア帝国のドイツ外交官でもあった裕福な商人の
次男に生まれ、音楽、絵画、舞踊の英才教育を受け
なに不自由無い少年時代を過ごしていた。
しかし第一次世界大戦で
ドイツはロシアの敵国であった為
住んでいたモスクワから遠く離れたウラルの
抑留キャンプに家族と一緒に収容される。
その地で彼はウラルの遊牧民と接触し
初めて異文化であるアジアへの興味を持つ。
その後、ドイツへ帰還するもアジアへの好奇心は棄て難く
意を決しインド経由でジャカルタへ。
彼は外交官だった父の影響でドイツ語以外に
ロシア語、英語、フランス語、オランダ語から
インドネシア語等6カ国語を話せた。
それで、ジョグジャカルタの宮廷で
スルタンの音楽監督の職を得る。
(スルタンと言う事はイスラム教の音楽か?)
1925年、たまたま訪れた隣りのバリで
神秘的とも云えるバリの民族文化に触れる。
その魅力の虜となり、2年後に島への移住を決意する。
バリでは古都ウブドの領主チョコルダ・スカワティと親交を深め
1928年にはウブドの峡谷にアトリエを兼ねた住まいを構える。
自ら画家としてバリの風景や人々の生活を描きつつ
土地の人への西洋絵画の指導や音楽の演出をした事は前回述べた。
(ウブドの宮廷跡で今でも行われている民族舞踊は、その名残りだ)
「ウブドの宮廷」の画像検索結果
そして、宮廷を訪れた欧米の観光客に
土地の人が書いた絵画を売る事を勧めたのも彼だ。
その中には、あのチャップリン等の名士も居たと云う。
(だからウブドの村は今でもギャラリーが並ぶ。)
そして音楽もガムランを始めとしたケチャ等を録音し
ニューヨークのオデオン社にレコードを発売させたのも彼。
彼が”バリ文化の父”と呼ばれるの理由はそこに有る。
しかし、現在バリの貨幣ルートは判らないが
私が観光で行った20年前ですら物価は日本の十分の一。
彼の居た時代、彼の得た収入は相当なものであったろう。
それで彼は沢山の召使いを雇い、仲間の芸術家たちをサロンに集め
王侯貴族の様な暮らしをしていたという。
彼の住む峡谷から見える棚田の美しさは陽の具合で変化し
遠くから聴こえるガムランの音色は
其処が熱帯の地と思えない此の世の極楽に感じられたろう。
しかし、彼の運命には地獄が待っていた。
1940年、ドイツがオランダを占領すると、
彼は敵国人扱いとなり、ジャワ、スマトラへ抑留され
更に他のドイツ人達と小型貨物船でセイロンへ移送される事に。
追い打ちをかける様に日本軍が、その船を爆撃し
あえなく船は沈没。ドイツに憎しみを持って居た
オランダ人は近くに居たが彼等を救おうとせず
ほぼ全員が溺死したと言う。
此れは”ファン・イムホフ事件”として
戦後、ドイツ政府がオランダを訴えたが
ヴォルター・シュピースは、その時
海の藻くずと成った。
20世紀の2つの戦争で、彼は只ドイツ人であったが為に
ナチスでもないのに翻弄された人生だったのだ
それは、彼の絵画の様に光と影のコントラストが強く
運命はガムランの響きの様に揺れて儚(はかな)かった。
それにしても、その生涯は深く調べるほど、興味は尽きない。
音楽的にも映像的にもスペクタクルな魅力が有り
私の頭の中では、既に長編映画大作と成っている。

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