2014年1月16日木曜日

伊福部昭の映画音楽:その10(最終回)
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日本列島(1965)
先の「帝銀事件・死刑囚」(1964)で事件の謎を追った
社会派の監督・熊井啓が、更に
戦後日本の黒い霧の真実を求める
新聞記者の孤高な姿を描いた作品。
主人公・宇野重吉の押さえた演技も光るが
裏で暗躍する組織の恐怖を重層なオーケストラで、
それに全てを抹殺される無念さをギターで表現した
伊福部の音楽が特に記憶に残った。
此の「日本列島」を始め
託した監督・熊井啓は彼の追悼の言葉に
”映画音楽の大山脈をなした方でした”と述べたように
今日まで此処に続けた彼の映画音楽の軌跡は
日本映画史上、深く刻まれた轍の様なものである。
音源が見つからないので紹介出来なかった
「ジャコ萬と鉄」(1949)「女中っ子」(1955)等
私が子供の頃から感動した映画には、いつも彼の音楽が
付いていた様な気がする。
彼の旋律に泣かされていたのだ。
最後に気付いたのは
イタリアのエンニオ・モリコーネの音楽に
彼と共通点がある事。
モリコーネはマカロニ・ウエスタンの音楽で知られるが
後年、ベルナルド・ベルトルッチの「1900」や
ジュゼッペ・トルナトーレ「ニュー・シネマ・パラダイス」等の
文芸作品に、そのオーケスレーションの才能が花開く。
伊福部も怪獣映画の音楽で有名になったが
実は他に手がけた文芸映画に付けられた音楽こそ
彼の本来のものだったのでないかと。
そして、もう一つ共通するのは
繰り返し反復される叙情的なメロディ。
モリコーネ節、伊福部節と揶揄される程
どんな作品でも、それらは登場し、
オリジナル・スコアを書いていないのでは無いか
使い回しをしているのでは無いかと疑われるくらい。
それでも、それらは見事に映像のエモーションを高め
映画に感動を与えていた。
しかし、これは名優と云われる役者の演技に似ている
どんな役でも自分が、まず存在し、その役に自分が入り込み
その自分が生きてこそ、役の人物像が生きて来る。
例えれば小津映画の笠智衆の様に。
そんなことを此の二人のマエストロに感じる。
マンネリでは無いのだ、変わらぬ
その存在こそが感動を伝えているのだと。
その裏で新しい音楽を模索し、様々な民族楽器の試みや
前衛音楽より先に従来の楽器を直接叩く方法や
テープの逆回転等を先駆けてしていたのも共通している。
モリコーネは世界的に知られる作曲家だが
伊福部昭も黒澤明や小津安二郎の様に
偉大な芸術家として世界に誇って良いのでは無いかと思う。

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