2012年4月23日月曜日

僕の好きな先生:RCサクセッション

此の歌は彼らの1stアルバム「初期のRCサクセッション」に入っている。
忌野清志郎がまだフォークのスタイルを取っていた頃だ。
此の歌に描かれた”先生”は私が中学生の時の美術の先生に重なる。
私が今日有るのも、みな彼のお陰と云って良い。

「お前は絵の才能がある、もっと絵を描け!」と
美術部に入れ、そして「絵は技術だけでは人は感動させられない、
人間性を高めるためには演劇もやれ!」と演劇部に誘い、公演にも参加させた。
私の演出家としての芽は此処で育まれたのだ。
当時、噂では彼は予科練くずれ、赤ら顔はアル中の証拠だと。
確かに時々、遠くを見ている様な顔をしていて
美術部の写生会には腰のポケットにウイスキーの小瓶が入っていた。
それでも、私の前で一度も乱れた事は無く、
正に煙草と絵の具の匂いのするカッコイイ先生だった。
私を嫌う体育教師に度々、教員室に呼び出された時も
何時も代わりに謝って引き取ってくれた。

そして私が中学を卒業後、暫くして彼が病気だと聞きき
ご自宅に見舞いに行った時も、床から起き上がり、元気だよと笑ってみせた。
そして、それから何年か後に亡くなった。
私は此の歌を聞く度、優しかった、その先生の事を思い出す。
”僕の好きな先生、僕の好きなオジさん”










2 件のコメント:

  1. 大阪のボディボーダー2012年4月23日 15:23

    いいお話ですね。
    昔はそういう先生がどこの学校にも
    必ずいて、机上とは別の学校が
    放課後にありました。
    人間臭い面白い魅力があって、
    教員たちから胡散臭がられてても、
    生徒は一目置いてました。
    会社もそうですが、
    中途半端な成果主義が蔓延って、
    数字に表せない魅力を持った方たちが
    居辛くなる世の中というのは、
    どこか間違っていると思いますね。
    だいたい、日本人に成果主義は
    そぐわないと実感します。

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    1. 予科練に入ったくらいの軍国少年が
      美術の教師に成った経緯(いきさつ)を
      今、生きておられたら、一緒に酒でも飲みながら
      聞きたかったと思います。
      終戦後から今日までの日本を
      どう感じていたかも。

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