2014年11月18日火曜日

高倉健(1931〜2014)
健さんが死んだ、いや今月の10日に亡くなっていた。
恐らく彼は身内に、暫くは誰にも知らせるなと言っていたのだろう。
そんなスタイリッシュな最期も彼らしい。
TVのニュースは文化勲章を貰った時の映像が出ているが
その時の彼は流石に82歳だったからノーメイクだと
同じ九州男児の高齢俳優・笠智衆と変わりない。
笠智衆(1904〜1993)
芝居も最期まで巧くなかった笠智衆に似ている。
笠智衆の場合は、それを”味”という芸にしたから見事だが
健さんとは体格も演じた役柄も、動物と植物ぐらい違うな(笑)

高倉健は”小田剛一”という堅そうな本名そのまま、実直に生きた。
東映二枚目俳優としてデビューしたものの
泣かず跳ばず、美空ひばりの相手役だったのが
その鋭い目付きと体格を生かした
任侠ヤクザ映画で突然ブレークした。

60年代末期、学生運動盛んな頃、
ヘルメットにゲバ棒を持った
若者たちがオールナイトの映画館で
彼の命を賭けた”殴り込み”シーンに
「異議無〜し!」「健さん・カッコイ〜ッ!」と共感
時代が彼をヒーローに祭り上げたのだ。
しかし学生運動も結局は体制の厚い壁に挫折
祭りの季節が終わると
ヤクザ映画も描かれた義理人情からは程遠い
まさに”仁義なき戦い”の現実に、彼の出番は無くなった。

そんな不器用な彼の生き方を脚本家・倉本聰や
監督・山田洋次が新しい魅力として蘇らせた。
映画「晩春」で監督の小津安二郎が笠智衆に
原節子扮する娘を嫁がせた夜、一人で泣いて下さいという注文に
”男は人前で泣かぬものです!”と断固拒否したという
そのエピソードと同じ様に、彼は役者である以前に
”高倉健”という人間を演じ続けた。
それは”健さん”しか出来ないと云う事
演技が、巧い下手関係なく
そこに彼が居れば良かった
芝居をする必要が無かったのだ。
例えれば、何にでも成り切れた三国連太郎や緒形拳とは
まったく対極に居た俳優。
日本映画では類い稀な存在であった。
それは「ゴジラ」から始まり「ビルマの竪琴」と
膨大な伊福部メロディを
日本映画に残した作曲家・伊福部昭とも重なる。
マンネリと言うなかれ”継続は力なり”なのだ。
伊福部昭(1914〜2006)
彼の生き様や、その寡黙な数少ない言葉に痺れ
憧れて、お手本とした一般中年男性は多い。
先日も浅草の、とある居酒屋 で川谷拓三似の
会社社長とおぼしきオッサンが
隣りに居た東映にコネがあるという男に
健さんが着ていた「昭和残侠伝」の着流しを
”幾らでも出すから譲ってくれ!”とせがんでいた。
”自分も同じ九州出なんでネ”と自慢げに。
今頃、彼も、さぞかし落ち込んでいる事だろう。
”男が惚れる男”こんな俳優は、もう出てこまい。

此のブログの“JAKET DESIGN"にだいぶ前に出した
彼のバイオグラフィー。
 
殆どはコレクションしているが下の辺りは手に入らない。
でも、此んなヤクザ映画は殆ど持っている。
・・・と言うのも私はムサビ時代
デザイン科なのに、専攻した映像の授業は
脚本家の石堂郎先生が”ヤクザ映画の構造と解析”
ばかりやっていたからね。
リアル・タイムで此れ等を全部観ているし
今でも”健さん”は大好きなのだよ。

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