2013年2月14日木曜日

(日本映画・女優編)
森光子(1920〜2012)
彼女は主役が多く、去年亡くなったばかりで
まだ輝き過ぎていて”星屑”と呼ぶには、ふさわしく無いが
それでも私の記憶では名傍役の印象がある。
生い立ちや経歴は、まるで映画や小説のようにドラマチック
いずれ遅かれ早かれドラマ「森光子物語」が出来るに違いない。
さて、そのシナリオだが、母は祇園の芸者、父は大金持ちの御曹司、
二人の道ならぬ関係は許されず、母の私生児として育てられる。
しかし母の家は倒産、義理の父も病死して
通っていた女学院は中退しなくては成らぬ羽目に。
しかし彼女には従兄に嵐寛寿郎という映画の大スターが居た。
それで女優を目指した彼女は、従兄のプロダクションに所属。
1935年に映画「なりひら小憎」でデビューするが
翌々年、嵐プロも閉鎖
しかたなく1938年、新興キネマ(今の大映)に移籍
娘役として多くの喜劇に出演するが人気はそれほど出ず
当時、新進気鋭の、あの監督・森一生
(「座頭市シリーズ」「薄桜記」を演出)と婚約するも、後に解消
それで映画界に居づらくなり、一時、身を引く。
戦争中の1941年、21歳の森は歌手を目指し、
陸軍の満州慰問団に参加、東海林太郎の前座として
中国戦線や南方戦線を巡回する。
逞しい彼女は、終戦後も進駐軍キャンプへの巡業も行い
27歳の時、森を見初めた米国人2世からプロポーズされ結婚
しかし芸能界に未練の有った森は彼の母国へ渡米せず、
たった結婚1週間で離婚。
その後1949年、彼女は肺結核を病み、約3年間芸能活動を休止。
再び活動を始めたのはラジオから。
ラジオ・ドラマやバラエティの司会で人気を得て
1958年、梅田コマ劇場で中田ダイマル・ラケットと競演した舞台を観た、
東宝の脚本家兼演出家・菊田一夫の目に留まり
誘われるまま上京、東宝と契約し
その年、芸術座の「花のれん」(主演は三益愛子)に出演する。
同じ頃、大坂時代からの仕事仲間の演出家・岡本愛彦
(「私は貝になりたい」「いろはにほへと」)と1959年に再婚。
1961年、東宝の菊田一夫の脚本による「放浪記」で林芙美子を演じ
それが彼女の運命を変えるほどの当たり役と成る。
それは夫・岡本との結婚生活に支障をきたし
結局、仕事を選んだ森は離婚した。
その後の森は、テレビへ活躍の場を拡げ
久世光彦の「時間ですよ」等で下町のお母さん役
又、「3時のあなた」の司会で見せた達者な話芸を買われ
NHKの紅白歌合戦に3度も起用されたり
「輝く日本レコード大賞」の司会も4年間努めている。
とにかく周知のごとく彼女の”芸の虫”ぶりは
高齢にもかかわらずトレーナーを付け、身体を鍛えて挑んだ
舞台「放浪記」のロングランをはじめ、
絶えず”ジャニーズ”との話題作り等、芸能界の第一線に居た事で証明される。
しかし彼女も加齢による体力の衰えには逆らえず、2012年辺りから
マスコミに登場しても、ウットリした恍惚の状態を見せる様になって
遂に、その年、都内の病院で死去、その時、92歳。
「紫綬褒章」「文化勲章」「「文化功労者」「東京都名誉市民」など
どの芸能人より多い叙勲に改めて驚くが、
彼女ほど長命の女優も日本には居なかったはずだ。
私の記憶では久世光彦・演出の「喜劇・東京ものがたり」
藤山直美との掛け合いの面白さが印象深い。
それは彼女のキャリア(女優、歌手、コメディエンヌ)
すべてを生かした名演技であったろうと思われる。

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