2015年1月27日火曜日

座頭市血笑旅(1964)三隅研次監督
大映のライバル市川雷蔵に水を開けられた
勝新太郎はイチかバチかの汚れ役「不知火検校」の成功で
自分の進むべき道を見いだした。
同じ盲目ながらヤクザというアウトローが主人公の
子母沢寛の短編を三隅研次監督と組んで映画化した「座頭市物語」は
モノクロ映画、低予算にも関わらず空前の大ヒット。
此のシリーズは大映のドル箱となり26本も続いた。
その中には出来不出来も有るが
シリーズの生みの親、監督・三隅研次が手がけたものは
今観ても驚くほど完成度が高い。

「座頭市物語」から8作目に当たる此の作品。
久しぶりに、元祖の監督・三隅がメガフォンを取り
ポスターにも有る様に赤ん坊を抱えた座頭市と云うのがミソ。
自分と間違えて殺された母親の子供に責任を感じ
何とか、その子の父親に送り届けようとする
座頭市の旅が、まさに”血笑旅”となる。
その道中は彼の命を狙うヤクザ達(石黒達也)に
スリ女(高千穂ひづる)が絡み
何と言っても片手に乳飲み子を抱えた座頭市が
ハンデを増やして、どう戦うか?が見もの。
まず賭場で、赤ん坊を向かいのスリ女に放り投げ
イカサマのサイコロを切って見破る処は
シリーズの”お約束”とは云え意表を突かれる。
そのスリ女が赤ん坊の世話をする内に
次第に座頭市に惚れて行く様を
高千穂ひづるが健気(けなげ)に演じて魅せる。
此の女優は私の子供の頃
東映時代劇の”お姫様”としか覚えていなかったが
当時の五社協定を破り、仕事を干されたが
それでも後に「張込み」「ゼロの焦点」と活躍した
実は演技派女優だったと云うのに気が付いた。
(確か”月光仮面””隠密剣士”の大瀬康一が夫だったはず)
カメラの牧浦地志が彼女を妖艶に撮って見事。
牧浦は名カメラマン宮川一夫の一番弟子。
勝新、三隅コンビは殆ど彼がカメラを回して
どの作品も師匠の宮川に負けず劣らずの
大胆なカメラアングルに隙の無い構図は
照明(山下礼二郎)美術(内藤昭)も含めて
如何に当時の大映の映像技術が優れて居たかと云う証拠
もっともっと評価されて良い人だ。

目が見えないから耳だけが頼りの座頭市の”弱み”に
つけ込んだアクション場面が毎回工夫されたが
8作目の此れでは、松明(たいまつ)の火攻め
燃えてはじける音と、燃え盛る火の熱さに
感覚を狂わされ、座頭市はパニックになる。
此のアイディアを考えたヤクザのズル賢さを
大映の悪役ではトップクラスの石黒達也が演じ
映画冒頭から座頭市に付きまとって死神の様で不気味。
悪役と云えば赤ん坊の父親役は金子信雄
子供に情が移り、手放せなくなっている座頭市に向かって
「そんなガキは俺は知らねえ」と、しらを切る
此の役者は後に東映「仁義なき戦い」シリーズで
裏の主役とも云うべき組長・山守義雄でブレークするが
此処でも血も涙も無い最低のヤクザ役がハマっている。
丁寧に練られた脚本(星川清司・吉田哲郎・松村正温)が
緻密でエオモーションは高められる。

しかし、此の作品が座頭市シリーズというより
日本映画の中でも希有なものと成っているのは
目の見えない人に対する哀れみと優しさだ。
それを勝新太郎が身体を張って演じきる。
盲目のリアルな仕草は勿論だが
乳を欲しがる赤ん坊に自分の乳首を吸わせて
慰める表情は彼の人間としての本物の温さ。
TVの座頭市シリーズでも何度か
彼の無類の子供好きのエピソードが描かれた。

冒頭と最後に一列に連なった按摩の集団が登場するが
彼等が健常者と同じ様に生きられない
無常観がひしひしと映像から伝わってくる。
それは人間の”業”の様なものにさえ感じる・・・。
此の仕掛けは音楽・伊福部昭に負う処が大きい。
彼の書くスコアは「ゴジラ」にも「大魔神」でも哀しみが漂う。
それは我々日本人の原風景、土着的な旋律だからだろう。
座頭市が子守り娘から耳で覚えた子守唄だ。
恐らく伊福部のオリジナル作曲だと思うが
初めて聴くはずなのに何処か懐かしい。
まして歌の巧かった勝新太郎だから尚更心に響く。
「座頭市血笑旅」見逃していた名作。
改めて勝新太郎と三隅研次、二つ才能の素晴らしさに感動。
未だ有る此のコンビ作品、全部観なくてなるものか。

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