2024年8月10日土曜日

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二村定一(1900~1948)
彼をWiki的に紹介すれば昭和の代表的な歌手である。
しかし、その名を知る人は少ないだろう。
下関の料亭・海月の経営者と義太夫芸者との間に出来た
いわゆる妾腹の子だが次男として育てられた。
義太夫の母の息子らしく邦楽洋楽に親しみ
宝塚歌劇に傾倒し、下関に巡業に来た浅草オペラに憧れ
入団を希望するも断られるも諦めきれず
徴兵検査後に上京し念願の浅草オペラに入団する。
歌劇「釈迦」でステージに立ち、数々のプログラムに出演し
レコードに「君恋し」を吹き込むが時は1923年
関東大震災が発生し発売には至らなかった。
1920年初頭に彼は海外のポピュラーソングに興味を持ち
その唱法を独学で習得し、大阪のダンスホールで
ジャズシンガーとして活動していた。
それだけでなくヴェルディの「リゴレット」
ワーグナーの「タンホイザー」等、新進オペラ歌手としても
活躍しレコードも数多く吹き込んでいる。
「私の青空」「アラビアの唄」が大ヒットし改めて発売された
「君恋し」「浪花小唄」も連続ヒットレコード歌手第一号とも呼ばれた。
邦楽で売れた彼だが米国ポピュラー音楽の主流であった
”クルーナー唱法もそつなくこなした。
1930年カジノフォーリー公演に参加しエノケンこと榎本健一と行動を共にし
二人で立ち上げピエル・ブリヤントは浅草の人気を読了したが
エノケンの人気が先行し”エノケン一座”と呼ばれ、
嫌気がさした彼は「エノケンの弥次喜多」を最後に
袂を分ち独立した活動を始めるもパッとせず。
時は太平洋戦争真っ只中、満州に渡り現地で終戦を迎える。
”バッカスの唄”でも分かるように彼の酒好きは有名で終戦前後に
アルコール依存症となり体調を崩し、晩年は昔日の面影は無く
榎本健一や服部良一のカムバック援助の甲斐もなく48年の生涯を綴じた。
浅草の六区の脇道に芸人を讃えた街灯があり彼ら顔を冠している。
勿論エノケン。シミキン、渥美清、大宮デン助。浅香光代に
まだ生きているのに何故か、なぎら健壱まで
でも二村定一の顔は見当たらないのが残念。

 

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