2014年9月2日火曜日

(日本映画・男優編)
三國連太郎(1923〜2013
テレビの訃報では映画「釣りバカ日記」のスーさんの
軽妙な役では考えられない、老け役の為に上下の歯を
全部抜いたという過去が取り上げられていた。
息子の佐藤浩市は「どんな父親でしたか?」との質問に
「そりゃ、ヒドイものよ!」と、たった一言で切り捨てた。
別に私は週刊誌では無いので彼の過去を暴くつもりはないが
彼の人生は此の"Stardust Memories"中でも
トップ・クラスの波瀾万丈型なので追跡してみた。
まず彼は私生児であった。
母親は16歳で、一家離散、海軍軍人の家に奉公に出された処で
身ごもり、相手は、はっきりしないが追い出される。
(此れは映画「異母兄弟」の軍人の父親役に反映されている
また、老け役のため歯を抜いたのは此の時である)
彼女は、たまたま沼津駅で知り合った男に付いて行き
仕事先の群馬県太田市で結婚し三國が生まれた。
彼が生後7ヶ月の時、義父は故郷に戻り
其処で中学を2年で中退するまで育つ。
その義父は非差別地域出身だったと彼は告白して居る
(此れも映画「破戒」の役に色濃く反映されている)
下田港から中国の青島に密航、その後、釜山で弁当売り等をして
帰国後、大坂で様々な職に就く、1943年20歳になった彼に
赤紙(召集令状)が届く、しかし戦場へ行くのを恐れた彼は
母親に入隊拒否の手紙を書き、
同居していた女性と故郷とは反対方向へ貨物列車で逃避行
しかし逃亡4日目で憲兵に捕まり静岡の連隊に入れられる。
此れは母親が手紙の連絡先を憲兵に知らせた為と彼は後で知る。
中国大陸の前線に送られ部隊は千数百人だったにもかかわらず
生き残れた兵隊は僅かに二、三十人だったとか。
更に戦地に向かう途中、熱病にかかり10日間意識不明で
死体扱いされ焼き場に運ばれる途中、意識が戻り
漢口の兵器勤務課で終戦を迎える。
(映画「ビルマの竪琴」では隊長役ではあるが戦争末期の軍隊が描かれた)
終戦後も中国の収容所に入れられるが、自作の化粧品等を
売っていたというから逞しい。
中国からの復員は妻帯者が優先という帰国条件に
出会った同じ姓の女性と偽装結婚、佐世保から広島を経て大坂に戻る。
再び様々な職業に付き1948年、その偽装妻が彼の子を
身ごもっていたにもかかわらず離婚。
(この辺りの”性の奔放さ”は数多く出演した今村昌平作品に繋がる)
鳥取県の農業組合長の秘書を務めた後、宮崎交通(タクシーの運転手?)
を経て1950年、東京は東銀座を歩いていた処を
松竹のプロデュサーにスカウトされ大船撮影所に研究生に成る。
(何故,彼が銀座に居たのか話が出来すぎて、どうも疑わしい)
デビューは木下惠介の「善魔」、その頃、左翼で
レッドパージされた岡田英次の代役だった。
その時の役名「三國連太郎」をそのまま芸名にする。
東宝の稲垣浩監督の「戦国無頼」に出演したいが為、東宝に移籍
その後も撮影再開した日活に走り、五社協定違反第一号として
松竹撮影所が怒り「犬、猫、三國入るべからず」という看板を出したとか。
不思議なのは劇団にも入らず、演技経験も無かったはずの彼が
どうして、あれほどのリアルな演技が出来たのか?
その後も東宝、日活、東映そして独立プロと
名監督からのオファーで、どの映画会社にも自由に出演
数々の名作に彼ならではの名演技を披露した。
こうして彼の実人生を辿ると映画で彼が演じた役そのまま
いや、それ以上の際どい”修羅の道”を歩んで来た男だった事が解る。
随分前だがスタジオの前でスポーツ・カーの手入れをしている処を
私は見た事が有るがダンディでスタイルも格好良く
当時、噂のあった太地喜和子ならずとも此れはモテるだろうなと・・・。
その太地だが、長田渚左・著「欲望と云う名の女優」よれば
”ワタシは私生児なの”と周りに話していたと云う。
普通のちゃんとした実の両親の家で暮らしながら・・・。
(恐らく三國に憧れ影響されての事だろう)
しかし彼の多彩な男女関係同様、何処までが嘘か真か判らない。
”他人を自分として演じ、自分を他人に成り済ませる”
極めると俳優とは不思議な生き物と成る。

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