2013年1月17日木曜日

(日本映画・男優編)

山茶花 究(1914~1971)

此の目玉のギョロッとした俳優を覚えておいでだろうか?
さっと出て来て、滑舌の良い大阪弁を物凄い勢いで話し
無駄な時間は過ごしたく無いと云わんばかりに
勝手に居なく成る、アクの強いキャラクターは
高利貸しにヤクザの親分から女衒まで
変化自在、その存在感は主人公を脅かす程。
しかし、経歴は演じてた役より更に凄く、波瀾万丈。
正に東京、大阪を股にかけ、日本の商業演劇界を
その希有な才能で生き抜いて来た性格俳優である。
まず生まれは大阪船場、大きな米問屋の息子だったが家は倒産する。
神戸工業高校の建築科を卒業後、建築会社の
就職も内定していたのを、画家を目指していた実兄の影響で
卒業試験をすっぽかし上京、同じ画家を目指すも
左翼思想に傾倒、特高に追われ、隠れるようにして
飛び込んだのが浅草のレビュー小屋。
此処迄話すともう映画みたいだが、此の頃の役者には多いパターン。
元々、才能が有ったのかレビューの台本を書くうちに
歌手としてカジノ・フォーリーからデビューしたのが1932年。
エノケン劇団、万盛座、吉本ショウと東京〜大阪を転々。
なかなか芽が出ず、俳優を諦め、朝鮮に渡り実業につく。
しかし俳優の夢諦めきれず東京に戻り、東宝の「ロッパ一座」に。
此のとき一緒に入って来たのが森繁久彌。
1939年、当時絶大な人気の「あきれたぼういず」の川田晴久以外の
メンバー(坊屋三郎、益田喜噸、芝利英)が
吉本興業から松竹系の新興キネマに引き抜かれ
その「新・あきれたぼういず」の結成に彼は参加、リーダー格と成る。
此のとき、かけ算の3x3=9をもじった山茶花究を名乗り始める。
(この芸名パターンは後に8x8=64の”八波むと志”に継がれた)
その後も森川信の「新青年座」の副座長から
自ら「山茶花究劇団」を立ち上げ、水の江滝子主催の「劇団たんぽぽ」と
太平洋戦争末期の時代を流れる内に終戦を迎える。
敗戦後再び「あきれたぼういず」を再結成するが1952年に解散
その後は1人でラジオのジャズ番組の司会をしたりしていた処を
かってのロッパ一座の仲間、森繁久弥に誘われ映画「夫婦善哉」に出演
その独特な演技で映画界から注目される。
此れ以降、東宝の”社長シリーズ”や”駅前シリーズ”で
イヤ味たっぷりな性格俳優として、又、文芸映画の名傍役として
巨匠たちに愛され、確固たる地位を築く。
どんな役でも彼の醸し出す黒いシニカルな笑いは
長い経歴からのリアルな裏付けが感じられるもの。
私には川島雄三の「雁の寺」でのカメラ狂の僧侶役や
増村保造の「暖流」でのアクの強い債権者などが忘れがたい。

誰もが知っている大スターの脇で、
顔は覚えているが名前が中々出て来ない、彼の様な
鈍い光を放つ”星屑たちの記憶”は、辿れば辿るほど興味深い。

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