笠智衆(1904〜1993)
勘の良い読者なら、次は此の人と思われただろう。
そう前回の志村喬が黒澤明という”太陽”に照らされていたなら
彼は小津安二郎という”月”に照らされていた人である。
生まれは熊本のお寺、つまり住職の次男
親は当然、跡を継がせるつもりで僧侶になる大学へ
行かせたが、当人は全くその気は無かったという。
志村喬が歌って殺陣も出来るスーパー・タレントなら
彼は全く逆、見事に何も出来ない人だった。
初期の清水宏の「簪」など、彼が余りにも下手で
観てる此方が恥ずかしく成ってしまうくらい。
芝居が出来ない俳優というか、良く云えば自然体。
それが、寸部違わず、決められた少ない台詞を
俳優同士が、やり取りする小津安二郎作品に
何故かハマッたのである。
芸達者な新劇俳優達の中で、
彼の熊本弁そのままの天然さが生きたのである。
今や素人が主演までする映画も少なく無いが
当時の日本映画で此れは奇跡に近いと云える。
小津作品は世界映画史の中でも所謂
映画文法を無視した斬新なものであった事は
今、フィンランドのカウリスマキやドイツのヴェンダースが
彼のスタイルを踏襲して認められたが
世の中には居るのである、無口で感情を表に出さない人が。
志村喬は名優だから、それをリアルに演技で出来たが
彼はそのまま、死ぬまで”笠智衆”しか出来なかった。
誤解されると困るので言い足しておくが
毎回、同じ味の”茶碗蒸し”を必ず客に出せるのは名人。
それなりの工夫や努力を裏でしているのである。
彼は「東京物語」の時、実年齢はまだ57歳
妻役の東山千栄子は14歳も年上であった。
此の映画で2人は70歳以上の夫婦という設定と思われる。
だから堤防に老夫婦2人が並んで会話する場面に
笠智衆は背中に座布団を入れて
腰の曲がった感じを出すという工夫をしていた。
早いうちから”笠智衆”を作っていたのである。
だから我々の知っている彼は最初から老人だった。
此れは北林谷栄が若い時から老婆役だったのと同じである。
しかし彼女の場合は新劇俳優だから
ビルマ人の老婆から東北の老婆まで緻密に造り込んでいたが
柴又の住職”御前様”は元・坊主だから何もしなくて良かった。
伊丹十三の「お葬式」のお坊さんも居れば良かったのだ。
他の作品でも、少し前の日本には彼の様な老人が沢山居たから
ひたすら”笠智衆”で居れば良かった。
監督も観客も、みんな、それを知っていた。
皆に愛される近所の”口下手なお爺ちゃん”だったのである。
だから彼に難しい芝居、例えば彼が他人(ひと)を騙したり、
彼に誰かを殺させようなんてする監督は
一人も居なかったのである。
それにしても彼のバイオグラフィー(出演作品集)は凄い!
小津作品以外にも木下恵介の「二十四の瞳」「野菊の如く君なりき」
稲垣浩の「無法松の一生」渋谷実の「好人吉日」
小林正樹の「人間の条件」黒澤明の「赤ひげ」「夢」
晩年は山田洋次が「男はつらいよ」だけでなく
「家族」「故郷」と離さず
TVでは倉本聰が「波の盆」「北の国から」
山田太一が「冬構え」「今朝の秋」と彼に”あて書き”した
何れも日本映画とTVドラマの歴史に残る名作揃い。
如何に名監督、名脚本家たちに、彼が愛されたかが解る。
私の例えが合っているか解らないが、
正に ”継続は力なり”
素直に自分らしさを続けた結果が
”味”という魅力になったのである。
此れは落語家が急に巧く成って”化ける”と云うのとも少し違う
年齢が追いついて本物の存在感が出て来た訳である。
しかし、その温厚な彼が、恩師とも呼ぶべき小津安二郎に
「出来ません!」と一度だけ反抗したのが
娘を嫁に出した後、父親が家に戻り、
一人、さめざめと泣くという場面
「明治生まれの男は泣く事はめったにない!」と
笠智衆はやらない。
此れには流石の小津安二郎も引き下がった
というエピソードが残って居る。
まったくギャーギャー泣き喚き、自分の使い込みを
誤摩化そうとした何処かの”号泣議員”に
笠智衆の爪の垢でも(残っていれば)飲ませてやりたい!
同じ九州男児で某有名俳優は、アクションが得意で
若い頃のヤクザ役の格好良さと云ったら最高だったが
「自分は不器用ですから・・・」と最近は、もう開き直り
台詞の間(ま)ばかり長くて、動かない。
確かに芝居は駄目だから
”鉄道員”なんかの格好をして、
なるべく後姿でジーッと遠くを見てる方が
みんなも安心して泣けたりする。
どんどん彼も”笠智衆”になってきた(笑)
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