2015年1月10日土曜日

”日本映画ガイジン列伝”その2
鎖国の長かった日本は幕末の外国人の相次ぐ来日に脅威を感じ
”尊王攘夷”という思想で対抗しようとしたが結局は開国し
「鹿鳴館外交」に象徴される様に
急いで西洋文明に追いつこうとした。
そして西洋と肩を並べたつもりで太平洋戦争に突入
幕末と同じ様に”鬼畜米英”と再び西洋人を敵とし
天皇陛下万歳!と戦って敗れた日本は
敵だったはずの進駐軍にガムやチョコレートを貰い
”意外に白人って悪い人じゃないんじゃないか?”と。
それだけではなく
外人は”鼻は高いし足は長くて格好い!”と
自分たちと外見の異なる彼等に”憧れ”さえ抱く様に成った。
前回、悪役を多く演じたた外人タレントを紹介したが
ロイ・ジェームス(1929〜1982)
彼の場合、見てくれは外人でも中身は日本人。
生まれはナント東京都台東区入谷
父親はロシア革命で日本に亡命して来た白系ロシア人
詳しくはカザフ系タタール(トルコ人)の回教徒
代々木上原に有る回教寺院の導師まで勤めた人らしい。
その息子ロイ・ジェームスは
小中高と、すべて日本の学校教育で育ち、明治大学を卒業し
スポーツ好きが、こうじてボクサーになり
”ストレート・ロイ”のリング・ネームで稼いでいたと云う。
それを外人タレントのはしりE・H・エリック(岡田真澄の兄)の推薦で
成瀬巳喜男の監督「浮雲」(1955)に米兵役で出演
それ以来、天性の愛想の良さと、頭の回転の速さで芸能界へ進出
トルコ人というより欧米人の様な彼の風貌が
白人コンプレックスの日本人に受け
それでいて下町育ちの、べらんめえ調の
歯に衣をきせぬ辛口トークが評判を呼び
ラジオのディスク・ジョッキーを幾つも抱え
テレビ成長期に歌謡番組やクイズの司会で人気が出た。
そして、その好感度からCM出演も多く、
当時の外人タレントNo.1の稼ぎであった。
その軽妙な語り口も、1982年に咽頭ガンで出来なく成り
53歳の若さで惜しくも亡くなっている。
彼は母国のロシア語が話せなかったらしいが
英語はどうだったのだろう?
そう云えば私の記憶の中には日本語の声しか印象に無い。
1971年に帰化し、ハンナン・サファを日本名・六条裕道に変え
その4年後、三島由紀夫の「鏡子の家」のモデルと結婚。
相手の姓を貰い、湯浅裕道として
今は多摩霊園の回教徒墓地に眠っている。

ジェリー伊藤(1927〜2007)
彼の場合はニューヨーク生まれながら
父親が日本人の振付け師と母親がアメリカ人のハーフだから
”ガイジン”と呼べないかも知れないが
その下手糞な日本語は死ぬまで本物の外人らしかった。
ニューヨークでミュージカル俳優として活躍後
来日し、デビューは日活の「海の野郎ども」(1957)
此れは裕次郎映画には珍しく社会派の新藤兼人が監督して
先に出したハロルド・コンウェイ等
外人タレント総出演の異色作だ。
その後、東宝の「モスラ」で小美人のザ・ピーナツを盗む
クラーク・ネルソン役がハマリ
それ以降の私に彼は”悪い外人”というイメージしかない。
東宝・東映を中心に“悪い外人”を演じ続け
TVでも大河ドラマ「三姉妹」「竜馬がゆく」「勝海舟」「花神」や
アクション物は「大都会」「非情のライセンス」「太陽にほえろ」と
出演本数はトップクラス。
奥さんは花柳若菜という日本人だったし
その生涯は殆ど日本で生活したはずだから
今のデーブ・スペクター並みにペラペラだったはずだが
役柄に合わせ、ワザと変な日本語を話していたのだろう。
ただしニューヨーカーらしい軽妙な仕草や洒落たセンスは
資生堂の初期の男性化粧品のCMに生かされている。
最後は米国に戻りロスの自宅で79歳で亡くなっている。

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