(日本映画・男優編)
小坂一也(1935~1997)
「今日の1曲」で今、特集を組んでいるが
此処では彼の俳優としての記憶を辿りたい。
彼は歌う映画スターの”はしり”だった。
進駐軍まわりの歌手だった彼が
進駐軍まわりの歌手だった彼が
「ワゴンマスター」で彗星の様にデビューして
たちまち若者たちのアイドルに成った。
それを茶の間のテレビの普及で
客足の遠のいた映画界が放って置くはずも無く
客足の遠のいた映画界が放って置くはずも無く
まず東宝が「星屑の街」(1957)で彼を主役に
タイトル通りの歌を歌わせ成功した。
その後も大映等、映画会社が、こぞって彼にヒット曲を
歌わせる場面を作ったが、それは全て歌手扱い。
その彼の俳優としての素質を最初に認めたのが監督・木下惠介。
「この天の虹」(1958)「惜春鳥」(1959)「春の夢」(1960)と出演させ
彼は松竹と専属契約し青春スターの目玉と成った。
そして、もう一人、彼に目を付けたのが
松竹ヌーベル・ヴァーグの監督・篠田正浩。
脚本に、歌人の寺山修司を迎え
脚本に、歌人の寺山修司を迎え
「恋の片道切符」「乾いた湖」「夕陽に赤い俺の顔」と
彼のユニークなキャラクターを引き出す前衛的な作品を発表した。
そして、もう一人、彼を自分の監督デビューに起用したのが
あの山田洋次、”寅さん”よりずっと以前の事。
「二階の他人」で彼を主役にオリジナル・脚本で勝負し認められた。
とにかく松竹は小坂一也で青春映画を
約10年間で40本以上も作ったワケである。
しかし彼も流石に30歳を過ぎると
いくら童顔と云えど若者を演じるには無理が出て来た。
観客動員数が落ちて来たのである。
観客動員数が落ちて来たのである。
松竹との契約は解除され、それと同時に主役もめっきり減った。
しかし、それ以降は渋い脇役としての活躍を続ける。
藤田敏八監督の「ダイアモンドは傷つかない」(1982)
市川崑の「細雪」(1983)
いずれも出番こそ少ないが、彼ならでは存在感があった。
そして、此の後も、若い監督たちの野心作
「キッズ」「愛しき日々よ」「愛の陽炎」「メイクアップ」に参加
伊丹十三の「マルサの女」では、既に童顔の面影も消えたが
何とも云えない中年男のトボケた味が出て来た。
彼が、いつ、病魔(食道ガン)に冒されたのは定かでないが
闘病しながらも映画にテレビと現代劇、時代劇を問わず
俳優を続け1997年62歳で亡くなった。
しかし、彼の甘い歌声と共に
あの少し、はにかんだ表情を思い出す度
それが何故か古い知り合いの様な、
懐かしさを感じるのは私だけだろうか?
しかし、彼の甘い歌声と共に
あの少し、はにかんだ表情を思い出す度
それが何故か古い知り合いの様な、
懐かしさを感じるのは私だけだろうか?
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